10年前の今日この日に。肺がんステージ4のオットのとAYA世代ツマの看病記録

2007年3月。ずっと続くと思っていた当たり前の毎日が一変しました。40歳になったばかりの夫に、まさかのがんの診断。あの日、何があったんだろう、何を感じていたんだろう。10年前の夫婦ふたりそれぞれの日記・記録を、2017年の同じ日付の日に。「あのとき」を改めて読み返します・・・・・・とやってみたのですが、1カ月分の転記で挫折。さらに時を経て、13回忌を迎えた今年、日記を転記していきます。とりあえずツマ分から。当時のAYA世代の患者家族の記録ということでアップしていきます。

2007年4月22日日曜日

今日も、入院先から外出。

 

その旨、午前中にメールがあり、家に戻ってくるのかと思ったら、昼にやっと到着。貧血で眠いらしく、出ようと思ったが寝てしまったとのこと。

 

カメキチは「末期は眠っている時間が長くなるんだって。末期」とか言う。

 

手巻きで昼食。熱37.7℃。

 

掃除をしてマッサージ。ビワ温灸。「レバーは?」と言う。貧血対策。近所の焼き鳥屋に塩レバーを買いに行く。

 

ぬいぐるみ人形を持ちながら、がんを食べてくれないかなぁ〜と。「お腹いっぱいになった?」と聞く。

 

ああ、助けて。

 

ヘモグロビンが6を着るときついなあと言う。血液検査は肝臓の数値が跳ね上がっている。おそろしい。何が起きているんだろう。あしたは漢方屋にいってくる。ラジオ波も問い合わせてみる。

 

「今日はしんどいしんどい。輸血をすれば元気が出るから大丈夫だ。いまは抗がん剤が効いてくれるのを待つだけ」とカメキチ。

 

こわいなぁ。

手相の先生が、「大丈夫、長く一緒にいる、子どもを持つ相がでている」と言ってくれているから、大丈夫と思い込もうとしているけれど、こわいおそろしい。

 

イビキをかいて寝ているのをみると、今までと何も変わらない。どうしたらよいの。

 

胸は常に痛いって。A病院にいたころの比ではない。QOLは思い切り悪化していると。ねえ、本当にがんなの?死んじゃうの?どうしたら助けられるの?なんで副腎転移だけのときに病院に行けなかったの?

 

重粒子問い合わせ

ラジオ波凝固療法問い合わせ 

大きい腫瘍は難しい

手術、体力が弱るとがんが大きくなる

放射線原発だけならいろいろな方法はある。

合併症がでると体力ががくっと落ちる。

などなどなど。