10年前の今日この日に。肺がんステージ4のオットのとAYA世代ツマの看病記録

2007年3月。ずっと続くと思っていた当たり前の毎日が一変しました。40歳になったばかりの夫に、まさかのがんの診断。あの日、何があったんだろう、何を感じていたんだろう。10年前の夫婦ふたりそれぞれの日記・記録を、2017年の同じ日付の日に。「あのとき」を改めて読み返します・・・・・・とやってみたのですが、1カ月分の転記で挫折。さらに時を経て、13回忌を迎えた今年、日記を転記していきます。とりあえずツマ分から。当時のAYA世代の患者家族の記録ということでアップしていきます。

2007年3月19日 セカンドオピニオンの依頼

10時、仕事

12時、会社の健康相談室。

その前に病院に寄り、人参ジュースを渡す。

 

オット君だるそう。関節痛もひどいんだって。

 

健康相談室で。

 

今はがんばろう!と思ってのぞんだのに、

思った以上に副作用がやっかいで、がっくりくる時期。

心配してくれる人の期待に応えようとしているのに、

身体が思うようについていかなくてがっくりくる。

食べられなければ食べなくていい、

体重が減るからと無理して食べるのもいいけれど、

嘔吐するとがっくりするから無理に食べなくていい。

食べられるものを見つけるといい。

 

気持ち悪いのは、第2波もある。

 

骨髄抑制は、白血病とかの薬に比べるとたいしたことはない。

 

会社への連絡は、貧血による体調不良が続いているという程度で十分。

 

看護師は、抗がん剤をやりながら通勤してくる人もいるからと。

上司は、あんなに机を片付けることないのに。

治る人もいるし、待っていると言ってくれていると。

 

セカンドオピニオンは、2つの病院に。

先生が、たぶん肺手術後の話しだと思うけれど、

単独転移なら手術の症例もあるという文言をHPでみつけ、

これを言うといいといってくれた。

 

いったん家に。

母が白菜があるというから、白菜のパスタにする予定が、

白菜が見当たらない。

「あら、おしんこに全部使っちゃったかしら」だって。

おいおい。

 

陽射しがポカポカで、

ふたりでご飯を食べるのは幸せだと思った。

何をしゃべったか覚えていないのが悔しい。

 

そうだ、帰ったら、コンニャクをやっていて、

「これをすると気持ちがいい」と言っていた。よかった。

こんにゃくにありがとうをして、捨てた。

 

そうだ、母は少し前、がんになってから、

高い洋服を買うのが嫌になったと言っていた。

いつまで着られるか分からないし、次、着れるか分からないし。

私もいま、ためらっている。

コート、スーツ、クリーニングしていいのか?

 

3:00、母、ゲルマニウム温浴に。

腰がまっすぐ。

朝、痛み止めを飲んだけれど、効いてきたのかな?

背中をさわると、ぼこっとした腫れがみつからない。

 

オット君のところに。

義母が、びわの葉を摘んでもってきてくれた

ありがたい。

 

健康相談室の先生に聞いた話をすると、

「今、がっくりくる時期」というのに共感して、安心したみたい。

「先生、いいこと言うなあ」と喜んでいた。

安心して、ご飯にあまり手をつけなかった。

今日は刺身だった。

 

とにかく関節が痛くて、ジジイみたい、らしい。

起き上がるのがやっとで、トイレも嫌だって。

それより熱が心配。

 

夜、身内に電話。

しなきゃよかった。

・現実を見ろ

・自分は叔父、親戚、立て続けに亡くなって、

人は必ず死ぬ、自分もいつ死んでもと思えるようになった。

そういう状態で育っていない人だから、よけいそう思わないだろう。

・変に治る期待をもたせて、残された時間を無駄にするのはどうか

・お金の心配はすることはない。ローンも団信でチャラになるのだから

好きなことをすればいい

 

あまりにもお金のことをいうから、オット君が何か言ったのかと聞いたら、

それは言っていない、だって。

それならなおのこと何様だろうか。

人の家の経済だ。

 

こっちは、治療法を含め、迷いながらリスクも分かりながらやっているのに、

プラチナ製剤は蓄積されるからとか、したり顔で得意げに

知識を披露されても、そのくらいネットを見ればするわかる。

副作用が出ている人を実際目の前で見ているわけでもないのに、

何を言っているんだ。

達観して、死生観をしたり顔で得々と話す。恥ずかしい。

 

その場で、夜遅くにごめんね、と電話を切ればよかった。

まともに聞いて、馬鹿な私。

 

あたまにきて、どうしようと思ったが、

実家に帰った母に電話。

話しているうちに落ち着いてきたが、

本当にこんなことで母が悪くなったら申し訳ない。

 

夜は、はじめてひとりぼっち。

広すぎる。

早く帰ってきてね。

 

病院、セカンドオピニオンの件はすんなり。

紹介状の宛先の先生の名前を言うと、

「あの人は結構大きく切るみたいだからなぁ」と。

ちょっと笑っていた。

 

「やっぱりそう?切るの好きな人?」と聞くと、

「まあ、話を聞くだけ、聞いてみなさい」と。

 

どうなるのかな。

でも、あれ。

切れば、スタートラインに立てると思うのだ。

2007年3月18日(日)

起きたら、オット君、吐き気があるみたい。

食欲もなく、でも人参ジュース、パン、ヨーグルト、リンゴを食べる。

アラジンの石油ストーブの芯を取り替えてくれた。

結構、難儀らしい。

次の取り替えも頼むよ。

 

食べたら横になる。

熱が37.6度とでてまたぐったり。

コンニャク湿布をする。

 

38.1度まで上がる。

あれしてこれしてうるさくて頭にくる。

タクシーで病院に行く。

そうはいっても、やっぱりすぐ気分は変わった。

治ってほしい。

 

病院に着いたら、また病気を自覚させられたみたい、

落ち込んだ顔になる。

無駄かもしれないけれど、気とか温灸とか一生懸命やる。

これぐらいしかできることがない。

 

看護師さんには、吐くほどではないけれど、ムカムカすると言っていた。

少し、風邪みたいな感じで節々が痛い気がすると。

 

熱の原因を調べる。

細菌感染かもしれないので培養すると採血。

 

ああ、いつかこんなこともあったと笑って話せる日がこないかな。

 

「農薬まみれの人参」とか、「よくひとりで帰せるね」とか。

 

具合の悪い人を遠くで案じるのも心配だけれど、

目の前でそうだと何もできないし、心配で気が狂いそうになる。

 

2007年3月17日

母はゲルマ温浴

帰ってくるとぐったり。痛いらしい。

 

16時頃病院にいくと、外泊許可だって。

親戚の叔父さんがくるというので、それを待つことに。

 

叔父さんはとても元気そう。

再手術をして5年になるそうだ。

オット君も手術できればなぁ。

 

別の叔父さんが、「どうやって病気がわかったの?」とオット君にきく。

「体重減、倦怠感…」とか言っていたら、

すぐ話がうつる。

 

「微熱がずっと続いていた」というと、

「微熱、1週間で病院に行くよね?」「行くよね」って嫌がらせ状態。

今日も、オット君は熱も下がり、調子がよさそうで

とても病気に見えないからなぁ。

 

家に帰る。

母は、ストマちゃんのお手入れ。

やっぱり腰骨のあたりが、ストマ外来の看護師が言っていたように

痩せている。

背中もこぶみたいな感じがする。

 

具合が悪いのに、ご飯の用意をしていてくれた。

かぼちゃの煮物、とてもおいしい。

2007年3月16日 初抗がん剤

 

 

母は昨日と違って、だいぶ調子がよさそう。

 

朝、気になっている病院に、セカンドオピニオンについて問い合わせてみる。

データは必要。この病院との紹介状はよくあるし、

他の病院も含め、

気兼ねしないで書いてもらっていいと言われる。

 

親戚は、「頭のいい人は、知識で怯えるから」とか言うけれど、

なんだろう。

知らない敵とどうたたかえというのか。

 

母とオット君のいる病院へ。

義父母もいて、4人でレストランに。オット君に行かされる。

4人で話すことないよ。

母は「おかあさんの顔を見たとき、

どんな気持ちだろうかと泣きたくなった」と言っていた。

 

ほかの親戚もくる。

 

母が帰ると、「ひとりで帰したの?よくひとりで帰せるよね」といわれてびっくり。

こっちは、ふたり病人なのよ。どうしろって言うの。

今日は、オット君の抗がん剤初日じゃない。

 

私も即言葉が返せればいいけれど、頭がまわらない。

なじられ、頭にくる。

誰のせいでこうなっているんだ。

 

もう嫌だと思った。

メンツばかり。なにしに来たのか。

 

でも、夕飯のとき、どうしてこんなことになっちゃったのかな?

本当なのかな?と言っていて、

かなしくなってきた。

本当に死んじゃうのかな。どうしよう。

 

つかれた。

2007年3月15日 告知 1年生存率50%

17時に説明がある。

 

診断は非小細胞がん、副腎転移。

抗がん剤は、カルボプラチンとパクリタキセル

あとで本を読むと、骨髄抑制が強い組み合わせらしい。

 

リンパ節の腫れなし

骨、脳転移なし、がラッキー。

 

でも手術はできない。まれに肺切除後の副腎転移は、

とると完治する例もあるが、しかもここまで腫瘍が大きいとできない

とのこと。

 

気になっていた病院にも聞いてみよう。

 

帰ると、母ぐったりしていた。

痛みと倦怠感がひどいようだ。

 

朝、ムカムカと痛みで苦しそうだったが、

マッサージするとムカムカが収まるみたいでうれしい。

できることをやろう。

 

時間が足りない。

母も病院や治療法を探したい。

家族ができること、なんだろう。

マッサージや湿布が少しでも力になれば。

 

1年生存率 50〜60%

2年 20〜30%

3年 半分

4年 半分

5年 あまりいないけれど、いなくはない。

 

ここにオット君をもってくること。

 

2007年3月14日

 

 

オット君、骨シンチ8:30のため、早々に出発。

 

母、昨日は痛くなかった腰が今日は痛いという。

太ももが痛くない分、マシみたいだけれど、

へっぺり腰で苦しそうだ。

 

私は病院へ。

夕方、会社の健康管理室と同期の人事の人が来てくれる。

高野フルーツのいちご、びわ。お茶をごちそうになる。

 

人事は、いま履歴書読みで忙しいらしい。

自分を一言で表すとという問いでは、

柔、和、奇、変あたりが多く、またかと辟易することもあるらしい。

それなら、名前の一文字について、親がこんな思いを

こめてつけてくれたからという方が、そうだよねと思えると言っていた。

 

オット君の夕飯、おいしそうだった。

 

帰り、東城百合子の『自然療法』を読んだ・

 

 

酢も最近は即席が多く、

それなら梅酢の方がよいとあり、さっそく自然食品の店へ。

 

家に帰る。

「具だくさん味噌汁。うまそー。二時間もかかった」と母。

気を遣っていっぱい作っておいてくれたんだ。

腰を曲げて辛そうだった。

 

食べたら横になり、コンニャク。

むくみも足首がきつい。

弱音も吐かずよく耐えている。

薬がきいて、マーカーが下がり、腫れも引きますように。

 

明日、17時、いよいよオット君の診断と方針発表。

いままでどこか逃げてきたものから、

逃げられなくなるのかな。どうかよい話が聞けますように。

 

鈴木ヒロミツの訃報。

60歳。一月に肝細胞癌と分かってもう亡くなるなんて。

挽回のチャンスをくれないものだろうか。

どうかお願いします。

 

2007年3月13日(火)

 

 

母、ストマ外来、CT。

 

母が通うのは、オット君が入院している病院。

病院に着くと、オット君に人参ジュースを渡す。

一晩で早速引っ越し。二人部屋だそうな。

 

ロビーで会うと、オット君、なんか一晩で胸のあたりが

げっそり痩せた感じで、たまらない気分になる。

 

母はストマ外来。

昨日とても痛がっていたので、そのことを話す。

プラスαの治療はないのかと。

 

するとやはり抗がん剤のみ、という。

のれんに腕押しな気分。

杓子定規の治療でいいんだろうか。

 

白血球は5800。すごい。

抗がん剤はできるそう。

オット君もきて、3人で抗がん剤の時間を待つ。

なんだかなぁ。

 

昨日、母も痩せたと思ったけれど、

オット君も痩せた。

オット君はこの病院に初診できて、もう2週間になる。

 

母の主治医は、腫瘍マーカーの値を見せてくれない。

化学療法室の看護師と薬剤師に不満をぶちまける。

看護師は、腫瘍マーカーなら、先生に連絡はするが、

ここでも結果は出せるよといって、もってきてくれた。

 

ぎゃー大変。

痛い、むくみと言っていたが、この6週間で、マーカー数値が倍。

CEAは60代、CA-A-19は350くらい。

オット君は、CEA120代くらいだったっけ。

 

薬剤師は、薬が効くとマーカーは下がる。

悪いときはケタが違うと言ってくれ、少し安心。

でも、オキサリプラチンをはじめたときも、半減はしていない。

 

3人で帰宅。

母はひたすらだるいと。

オット君は図書館へ。

 

ご飯を食べ、風呂、ふたりでコンニャク湿布。

今日は母は薬が効いているのか、昨日よい痛くなく、

こんにゃく湿布も気持ちよくできている。

オット君も、マッサージ上手になったといっていた。

 

夜、日記を書きながら、ネットを見る。

と、また血の気が引く。

 

母は、「ツマ子がかわいそう。看病で」といっている。

そんな心配をして、悪くならないでね。

 

ふたりでリビングでコンニャク湿布。

コンニャクが熱いとかぬるいとか、温め直す。

こんな仲良く3人もいるのに、

なんで二人ともよりいよって大変な病気なの?

 

ああ、生きた心地がしない。

いつも朝、ああどうしよう神様という思いで目が覚める。

人生に挽回のチャンスをください。