10年前の今日この日に。肺がんステージ4のオットのとAYA世代ツマの看病記録

2007年3月。ずっと続くと思っていた当たり前の毎日が一変しました。40歳になったばかりの夫に、まさかのがんの診断。あの日、何があったんだろう、何を感じていたんだろう。10年前の夫婦ふたりそれぞれの日記・記録を、2017年の同じ日付の日に。「あのとき」を改めて読み返します・・・・・・とやってみたのですが、1カ月分の転記で挫折。さらに時を経て、13回忌を迎えた今年、日記を転記していきます。とりあえずツマ分から。当時のAYA世代の患者家族の記録ということでアップしていきます。

2007年3月18日(日)

起きたら、オット君、吐き気があるみたい。

食欲もなく、でも人参ジュース、パン、ヨーグルト、リンゴを食べる。

アラジンの石油ストーブの芯を取り替えてくれた。

結構、難儀らしい。

次の取り替えも頼むよ。

 

食べたら横になる。

熱が37.6度とでてまたぐったり。

コンニャク湿布をする。

 

38.1度まで上がる。

あれしてこれしてうるさくて頭にくる。

タクシーで病院に行く。

そうはいっても、やっぱりすぐ気分は変わった。

治ってほしい。

 

病院に着いたら、また病気を自覚させられたみたい、

落ち込んだ顔になる。

無駄かもしれないけれど、気とか温灸とか一生懸命やる。

これぐらいしかできることがない。

 

看護師さんには、吐くほどではないけれど、ムカムカすると言っていた。

少し、風邪みたいな感じで節々が痛い気がすると。

 

熱の原因を調べる。

細菌感染かもしれないので培養すると採血。

 

ああ、いつかこんなこともあったと笑って話せる日がこないかな。

 

「農薬まみれの人参」とか、「よくひとりで帰せるね」とか。

 

具合の悪い人を遠くで案じるのも心配だけれど、

目の前でそうだと何もできないし、心配で気が狂いそうになる。

 

2007年3月17日

母はゲルマ温浴

帰ってくるとぐったり。痛いらしい。

 

16時頃病院にいくと、外泊許可だって。

親戚の叔父さんがくるというので、それを待つことに。

 

叔父さんはとても元気そう。

再手術をして5年になるそうだ。

オット君も手術できればなぁ。

 

別の叔父さんが、「どうやって病気がわかったの?」とオット君にきく。

「体重減、倦怠感…」とか言っていたら、

すぐ話がうつる。

 

「微熱がずっと続いていた」というと、

「微熱、1週間で病院に行くよね?」「行くよね」って嫌がらせ状態。

今日も、オット君は熱も下がり、調子がよさそうで

とても病気に見えないからなぁ。

 

家に帰る。

母は、ストマちゃんのお手入れ。

やっぱり腰骨のあたりが、ストマ外来の看護師が言っていたように

痩せている。

背中もこぶみたいな感じがする。

 

具合が悪いのに、ご飯の用意をしていてくれた。

かぼちゃの煮物、とてもおいしい。

2007年3月16日 初抗がん剤

 

 

母は昨日と違って、だいぶ調子がよさそう。

 

朝、気になっている病院に、セカンドオピニオンについて問い合わせてみる。

データは必要。この病院との紹介状はよくあるし、

他の病院も含め、

気兼ねしないで書いてもらっていいと言われる。

 

親戚は、「頭のいい人は、知識で怯えるから」とか言うけれど、

なんだろう。

知らない敵とどうたたかえというのか。

 

母とオット君のいる病院へ。

義父母もいて、4人でレストランに。オット君に行かされる。

4人で話すことないよ。

母は「おかあさんの顔を見たとき、

どんな気持ちだろうかと泣きたくなった」と言っていた。

 

ほかの親戚もくる。

 

母が帰ると、「ひとりで帰したの?よくひとりで帰せるよね」といわれてびっくり。

こっちは、ふたり病人なのよ。どうしろって言うの。

今日は、オット君の抗がん剤初日じゃない。

 

私も即言葉が返せればいいけれど、頭がまわらない。

なじられ、頭にくる。

誰のせいでこうなっているんだ。

 

もう嫌だと思った。

メンツばかり。なにしに来たのか。

 

でも、夕飯のとき、どうしてこんなことになっちゃったのかな?

本当なのかな?と言っていて、

かなしくなってきた。

本当に死んじゃうのかな。どうしよう。

 

つかれた。

2007年3月15日 告知 1年生存率50%

17時に説明がある。

 

診断は非小細胞がん、副腎転移。

抗がん剤は、カルボプラチンとパクリタキセル

あとで本を読むと、骨髄抑制が強い組み合わせらしい。

 

リンパ節の腫れなし

骨、脳転移なし、がラッキー。

 

でも手術はできない。まれに肺切除後の副腎転移は、

とると完治する例もあるが、しかもここまで腫瘍が大きいとできない

とのこと。

 

気になっていた病院にも聞いてみよう。

 

帰ると、母ぐったりしていた。

痛みと倦怠感がひどいようだ。

 

朝、ムカムカと痛みで苦しそうだったが、

マッサージするとムカムカが収まるみたいでうれしい。

できることをやろう。

 

時間が足りない。

母も病院や治療法を探したい。

家族ができること、なんだろう。

マッサージや湿布が少しでも力になれば。

 

1年生存率 50〜60%

2年 20〜30%

3年 半分

4年 半分

5年 あまりいないけれど、いなくはない。

 

ここにオット君をもってくること。

 

2007年3月14日

 

 

オット君、骨シンチ8:30のため、早々に出発。

 

母、昨日は痛くなかった腰が今日は痛いという。

太ももが痛くない分、マシみたいだけれど、

へっぺり腰で苦しそうだ。

 

私は病院へ。

夕方、会社の健康管理室と同期の人事の人が来てくれる。

高野フルーツのいちご、びわ。お茶をごちそうになる。

 

人事は、いま履歴書読みで忙しいらしい。

自分を一言で表すとという問いでは、

柔、和、奇、変あたりが多く、またかと辟易することもあるらしい。

それなら、名前の一文字について、親がこんな思いを

こめてつけてくれたからという方が、そうだよねと思えると言っていた。

 

オット君の夕飯、おいしそうだった。

 

帰り、東城百合子の『自然療法』を読んだ・

 

 

酢も最近は即席が多く、

それなら梅酢の方がよいとあり、さっそく自然食品の店へ。

 

家に帰る。

「具だくさん味噌汁。うまそー。二時間もかかった」と母。

気を遣っていっぱい作っておいてくれたんだ。

腰を曲げて辛そうだった。

 

食べたら横になり、コンニャク。

むくみも足首がきつい。

弱音も吐かずよく耐えている。

薬がきいて、マーカーが下がり、腫れも引きますように。

 

明日、17時、いよいよオット君の診断と方針発表。

いままでどこか逃げてきたものから、

逃げられなくなるのかな。どうかよい話が聞けますように。

 

鈴木ヒロミツの訃報。

60歳。一月に肝細胞癌と分かってもう亡くなるなんて。

挽回のチャンスをくれないものだろうか。

どうかお願いします。

 

2007年3月13日(火)

 

 

母、ストマ外来、CT。

 

母が通うのは、オット君が入院している病院。

病院に着くと、オット君に人参ジュースを渡す。

一晩で早速引っ越し。二人部屋だそうな。

 

ロビーで会うと、オット君、なんか一晩で胸のあたりが

げっそり痩せた感じで、たまらない気分になる。

 

母はストマ外来。

昨日とても痛がっていたので、そのことを話す。

プラスαの治療はないのかと。

 

するとやはり抗がん剤のみ、という。

のれんに腕押しな気分。

杓子定規の治療でいいんだろうか。

 

白血球は5800。すごい。

抗がん剤はできるそう。

オット君もきて、3人で抗がん剤の時間を待つ。

なんだかなぁ。

 

昨日、母も痩せたと思ったけれど、

オット君も痩せた。

オット君はこの病院に初診できて、もう2週間になる。

 

母の主治医は、腫瘍マーカーの値を見せてくれない。

化学療法室の看護師と薬剤師に不満をぶちまける。

看護師は、腫瘍マーカーなら、先生に連絡はするが、

ここでも結果は出せるよといって、もってきてくれた。

 

ぎゃー大変。

痛い、むくみと言っていたが、この6週間で、マーカー数値が倍。

CEAは60代、CA-A-19は350くらい。

オット君は、CEA120代くらいだったっけ。

 

薬剤師は、薬が効くとマーカーは下がる。

悪いときはケタが違うと言ってくれ、少し安心。

でも、オキサリプラチンをはじめたときも、半減はしていない。

 

3人で帰宅。

母はひたすらだるいと。

オット君は図書館へ。

 

ご飯を食べ、風呂、ふたりでコンニャク湿布。

今日は母は薬が効いているのか、昨日よい痛くなく、

こんにゃく湿布も気持ちよくできている。

オット君も、マッサージ上手になったといっていた。

 

夜、日記を書きながら、ネットを見る。

と、また血の気が引く。

 

母は、「ツマ子がかわいそう。看病で」といっている。

そんな心配をして、悪くならないでね。

 

ふたりでリビングでコンニャク湿布。

コンニャクが熱いとかぬるいとか、温め直す。

こんな仲良く3人もいるのに、

なんで二人ともよりいよって大変な病気なの?

 

ああ、生きた心地がしない。

いつも朝、ああどうしよう神様という思いで目が覚める。

人生に挽回のチャンスをください。

 

2007年3月12日(月)いよいよ入院

 

いよいよ入院。

でも、家を出たところで、診察券をどこに入れたか忘れ、途方に暮れる。

結局思い出したが、オット君をまたがっくりさせる。

仕方ない。

 

病院につくと、義父母、きていた。

 

病棟はなんかずいぶん静かで、外来と雰囲気が違って焦る。

食堂も窓がない。

いきなり個室というのも焦る。

そんなに大変ということ?

部屋繰りの関係ときいて、まあ、納得。

 

採血、レントゲン、24h蓄尿

1日外泊。

14日骨シンチ

15日説明

 

今日は、母が通院のために家にくるので、早めに帰る。

そうだ、母が入院していたとき、

抗がん剤治療の説明をしていたM医師がいてびっくり。

オット君は「ボクが裸眼なのに見つけたよ。

あの雰囲気はすごい。見違えない」だって。

 

オット君はおいていかれる子犬のような目をしていた。がんばれ。

 

母は、会った瞬間「痩せた?」と思った。

母本人も、明日のCTは心配のよう。

・痛みがももまできている

・むくみが引かず、固い(明日先生に話そう)

・便がここ1週間毎日でている。緑からオレンジ。

 

緑は膿みとネットで読んだ。心配。

 

いとこから、母に電話。

でも、「誰ともしゃべりたくない。

いつも泣いているわけじゃないけれど、元気に電話にでると誤解される。

相手の期待通りの反応をすると自分が疲れる」と。

 

母はかなりがっくりきたようだ。

オット君のことで心配かけられないな。

コンニャク湿布をやってみるが、母にはキツイみたい。

同じ格好をしていられないという。

うーむ、敵は手強い。

 

母は、友人のFさんに「今月、遊びに行かない?」と言われたけれど、

本当のことは言えなかったよ、と言っていた。

 

こっちでもあっちでも胃が痛いわね、だって。ごめんね。

 

さぁ、早く寝なくちゃ。

明日は母の病院で、15日はちょっと怖い方針発表だし。

まあ、なんとかなるよ。大丈夫。

 

そうそう、オット君の病室。

病室のナンバーと、絵柄が、我が家にご縁のあるもので。

母は、自分のとき、熱が出て手術できないかもと、入れてたのが

熱は出ていたけれど手術できたのがうれしい記憶みたい。

 

六〇代ではまだまだ死にたくないといっていた。

お墓は散骨にする?と。

私が生き残ったとき、お参りできないのは嫌だと言った。

でもお寺からはお金の要求。