10年前の今日この日に。肺がんステージ4のオットのとAYA世代ツマの看病記録

2007年3月。ずっと続くと思っていた当たり前の毎日が一変しました。40歳になったばかりの夫に、まさかのがんの診断。あの日、何があったんだろう、何を感じていたんだろう。10年前の夫婦ふたりそれぞれの日記・記録を、2017年の同じ日付の日に。「あのとき」を改めて読み返します・・・・・・とやってみたのですが、1カ月分の転記で挫折。さらに時を経て、13回忌を迎えた今年、日記を転記していきます。とりあえずツマ分から。当時のAYA世代の患者家族の記録ということでアップしていきます。

2007年4月5日 今日は外泊

しばらく投稿が途絶えましたが、気を取り直してここから2年ぶりに過去の記録の投稿を再開します。とにもかくにも、全力で転記、アップします。(今日は2019年10月29日、投稿日付は2017年4月5日から設定、出来事はその10年前の2007年4月5日)

 

 

ツマ子→くま子

オット君→カメキチ

に直します。

 

義母が入院しているカメキチを家まで車で乗せてくるから、迎えはいらないと言われた。カメキチ、義母と家に到着。

 

カメキチとわたし、義母と母と四人でしばらくおしゃべり。カメキチは家に帰ると元気になる。「退院しちゃおうか」みたいなことを義母とは言っていたみたい。

 

カメキチはわたしがカメキチの脱毛した毛を払っているのをみて、バリカンやってくればよかったと言ってくれたのが救い。病院でやってきてよーー。

 

PETの結果の画像が出て、四カ所ピンクに光っていたそうだ。転移した場所が光るのだ。

 

カメキチはもう抗がん剤を受けるモードに入っている。切ったり、転移したかもしれない右腸間膜ががんでなくても、じゃあ、右腎の入口が光っているのはなんなんだと。わたしは手術で切るという先生がいるなら、賭けてみたい。

 

でも、もうなにかあって、カメキチは「くま子がああ言ったから」となったら万一のとき、義父母に責められるだけ。話し合わないと後々大変なことになる。母も大変なことになったら責められるから、あちらに決めてもらうほうがよいのではという。

 

空豆を母が茹でる。「茹でたてのぷっくりしているときに食べた方がおいしいよ」と、覚めてから言う。

 

夕食は野菜焼きと刺身。おいしかった。

 

がんサポートという雑誌にタキソールのことが書かれている。しびれは「玉砂利を踏むような感じ」とあるのを母にみせると、「そうそう」と言う。

 

カメキチと同じように副腎転移して手術を受けた人のホームページをカメキチに見せる。余計辛い思いをさせるだけかもしれないけれど。

 

でも、本当にいろいろな巡り合わせ、その人とは共通項が多く、どうかあやかることができるといいと願う。

 

夜、母のマッサージ→カメキチのマッサージ。

 

母にはだいぶ愚痴って嫌な気を発散してしまった。母は腰がだいぶ痛いようだ。気当ても効いていない気がする。こんにゃくシップはやっている間は気持ち良く、痛みもないらしい。

 

二人目のマッサージはやはり疲れる。気当てもあまりうまくいかない。カメキチはだいぶ背中が痛そうだ。ロキソニンを飲み続けているのに!

 

熱は薬を飲んで37.1〜37,4度。四カ所にがんかぁ。やっぱり手相もなにもかも所詮占い夢物語。単なる願望を肯定されただけ。そうだよね、秋から、つまり半年前には自覚症状があった。自覚症状が出てからでは遅いのに、すでに半年。

 

カメキチは例え切ったとしても、がんの勢い画強いから、傷が治り、次の治療までの間、がんの進行を抑えられる自信はないという。ああ、辛いだろうなぁ。

 

どうかチャンスがほしい。チャンス=切るということか。抗がん剤か。いずれにしても明日15時に検査結果。期待したい気持ちがあるからこそ、でも現実の厳しさもあるからこそ、ああこわいなあ。チャンスがほしい。神様お不動様、お父さん、どうか、あと15年くらいカメキチを生かしてください。母も。